昭和51年10月03日 朝の御理解



 御理解 第78節 
 「神の機感にかのうた氏子が少ない。身代と人間と達者とがそろうて三代続いたら家柄人筋となって、これが神の機感にかのうたのじゃ。神の機感にかなわぬと、身代もあり力もあるが、まめにない。まめで賢うても身代をみたす(尽くす)ことがあり、また大切な者が死んで、身代を残して子孫をきらしてしまう。神のおかげを知らぬから、互い違いになってくる。信心して神の大恩を知れば、無事達者で子孫も続き身代もでき、一年まさり代まさりのおかげを受けることができるぞ。」

 神の機感にかなうと言う事。あれもこれも出来ると言う事は先ずないと致しましても、これだけはここだけはこの氏子は間違いがないと、大切なところを人間としての大切なところを頂き抜くと言う事。そういう信心が続けられる。昨日の御理解の中に申しました。それこそ人間が露ほどの違い、間違いのない生き方それは尊い事でしょうけれども、そう言う事が現実として出来ると言う事はあり得ない。三代金光様私共から見ても、それこそこの方こそ露ほどの間違いのない生き方を、なされておられるお方だと。
 私共は確信しております。地上の太陽として拝みました。その方ご自身がご自分のお言葉の中に「お礼の足りないお詫びばかりを致しております」と仰るのですから。もう三代金光様こそ、お詫びなどと言う事は、なさらんでもよかろようにあるけれども、そこに三代金光様は、三代金光様としてのご反省がおありになったと言う事であります。ですから神の機感にかなうと言う事は、その人間の全て性格の全てが、神様の心に叶ったと言う様な事ではないと、私は思うというのを昨日聞いて頂いたですけれども。
 けれどもこの事だけは、これだけは間違いのない生き方を、露ほどに間違いなく続けさせて頂いておるという、私はおかげを受ける時にまぁ言うならば、露ほどの間違いがない生き方をしておる者として、神様がそういうおかげを下さるのではないかと思います。今月号の新聞がここへ出来て来ております。大変内容が充実した記事で一杯です。中に先日から呉地区の青年教師の先生方がここへ見えた事が出て、そのお礼状の一節が出ております。寺本教授御礼状の中で、親先生を評して次のように語られた。
 「先生が話される事全てに、自然に人間の生きるありのままのありようを示しておられ、神をそのままに見せて下されてある事を、しきりに考えており」と言う様な事が書いてある。なら私が露ほどに間違いのない生き方をしておるかというと、決してそうではない。ただまぁしますなら、朝の四時の御祈念なら、四時の御祈念には、これは盆もなからなければ正月もない、何十年間の私の神勤ですね。神勤めというものがこれは露ほどに違ってないと言う事であります。なら一語一秒の違いもないと言う事であります。
 だからその位の事ならば、私は出来ると思うんですやろうと思うたら。他の事はまぁ言うならしだごだであっても。けれどもこの様にしてです、言うなら神様が間違いのない事、本当な事有り難い尊い事、天地にこれなら通うと言う様な事をです、皆さんの信心の生活の信条に一事だけでも、これだけは露ほどの間違いのない生き方をさせて頂いておる、この御教えだけは頂き抜いておるという生き方をすると、一つの御教えを頂いておってもです、全部の御教えを頂いておるかのように。
 神様がおかげを下さると言う事。いわゆるおかばいを下さる。私が例え人間のありようの、言うならばこれが例えば、人間業とは思われないと言う程しの、おかげを頂き現わしておるという事実なんです、ここのお広前で。また私自身私一家の上に、それこそ露ほどに間違いのないおかげを正確に頂いておるという事実なんです。そんなら私が何もかにもがそんなに正確無比で、実意丁寧な神信心が出来ておるかというと、否そうではないと言う事なんです。
 そしてその事がです段々有り難うなって参りますとです、言うならば御結界の奉仕の上にも生活の上にも、もう露程に間違いのない生き方をする事が、こんなに有り難い事だと分かって来るんですから、その有り難いというものはいよいよ広げられて行く。昨日の研ナオコのそれですよ。もう一生涯かかってこの事を広げて行こう、深めて行こうという信心が出来て来る。研くと言う事に素直に取り組む事が出来る様になって来る。
 私はその辺があの本気で御教えを行じていく者の楽しみと言うか、まぁそこがミソですよ。だから本気で御教えの言うならば、行者になり切ると言う事です。いやあれも是もではなくても、是だけこの事だけはというものが出来て来ると、そこから一つが二つ出来るようになり、三つ出来る様になって行くんです。その状態を神様が御覧下さってです言うなら全部の御教えなら、全部の御教えが出来たかの様にしておかげを下さる。
 本当に私は昨夜から、その事を思うと感動するのですけれども、昨日「教徒新聞」を見せて頂いておりましたら、ある教会の総代さんですね伊藤さんという方が、「今こそ伝えるためにわが信心の整理、わが信心の元を確かめるという」これを読ませて頂いておりましたら、大した事は書いてないと私は思いながら読んでおった。ところが偶々お母さんの信心と言う事を語られる時にです、こういう記事が載っておりました。
 「あくる日から母と妻が、リュックに一杯両手にはかごに二杯の商品を持って、隣の町へ売りに出かけた」というところ、終戦直後大変難儀な状態の中にあって、履物を売って回っておられる。しかも姑親と嫁さんが一緒にリュックを担いで、しかも買い物かごを両手に下げて、出かけたというその後を、合掌せねばおれないものを感じたと言う事が書いてある。私はそこを読んだ時に、もうどうにもこうにも感動が止まらなかった。
 夜中にちょっとその事を思うたら、その事が感動になって来るんです。私は思いましたね、これは天地の親神様の感動なんだと言う事です。そして初めてまた改めて分からせて頂いた事はです、「嫁と姑の仲が揺れておったり憎み合っておったら、それは天地の隅々まで響きわたる」と教祖様が仰っておられる事の裏返しを感じました。私はたったそれだけの記事を読んで、感動が止まらなかったです。これは天地のいわば親神様の感動だと、私は正しくそう感じたです。
 お母さんと嫁さんが、リュックに一杯の商品の下駄をかろうて、両方にはこう買い物かごを持って、まぁ本当にお母さんやら嫁達にです、家内に「苦労をさせてすいません」というのが、後ろから合掌するのであったでしょう。けれどもそれじゃない私が感動したのは。嫁と姑が仲良う商いに出るという、その様を思うた時にです、もうどうにも感動が湧いてしかたがなかった。昨夜の御奉仕の時でした。
 ですからその反対の事、嫁と姑の仲が悪かったらね、それは天地の隅々までも響きわたるほどしですから、そう言う事でおかげの頂ける筈がない事が分かります。私共が家庭信心は家庭に不和のなきがもとと。この事を一家中の者が祈りに祈り願いに願って、親子兄弟言わ仲睦まじゅう行くような生き方を、色々な角度から頂いて教えを受けて、努力をさせて貰うて、一家中の者が拝み合うて行けれるような和t学資は状態がです、続いたらそういう信心が続いたらもう必ず二代に続くでしょう。三代に続くでしょう。 
 これは神様のおかげで続くです。神の機感にかのうた家庭というものは、そのようにして生まれてくるんです。昨日午後の奉仕をさせて頂いております時に、高芝さんが従兄弟さんに当たられる方を、親子三人お導きして見えられました。娘さんのまぁ縁談の事でございます。もう私はここへ座られてから、本当にいちいち思うたんですけども、高芝さんによう似てあるんです。もう言わんでん親戚の方だと思うように似てあんなさいます。ものの言い方から、態度からよう似とんなさいましたが。
 ここに見えた時に「もうおかげになりますよ」と言うて私は確信をもって、お話しした事です。というのは縁談の事がちょうど四人続いとったんです。直方の行本さんそれから飯塚の安東さん、この二人のこの頃から、電車の中で知り合うたという方をここにお導きして参って見えて、それからお付き合いしながら、そして仲人にまで進展している訳です。その二つの方。そして次に萩の市川さん、これもやっぱり縁談の事でした。そこへまぁだ市川さんが座っておられる時に、そこへ見えられたんです。
 それでお話を頂かせてもろうたら、あのう娘さんの縁談の事でと言う事であった。だからもう神様がねあなた方が参ったとか、高芝さんが導いて参って来なさったと言うたり、思うたりしとるだろうけれども、絶対そうじゃないよと、神様の目に見えぬ糸に操られて、そしてお参りをして来ておる。そして私が確信を持ってお取次が出来るように、神様が演出しておって下さる。いわゆる続いておると言う事なんです。そして尚また驚いた事は何をなさっておられますかと言うたら、大宰府の郵便局長をなさっておられる。
 「ほうもうあなたいよいよおかげますばい。今お取次させて頂いた萩の市川さんという方も、萩町の郵便局長をなさっておられる。そげん郵便局長なんかがゾロゾロとおる訳はないですよ」と。しかもその続いておる。何でもない事なんですよ言うたら。何でもない事なんだけれども、神様の御演出というか助けずにはおかんという働きをね、そこに感ずる時に、私が確信を持ってお取次が出来ると言う事と同時にね、金光様の御信心はそういうもうそれこそ続いておると言う事です、おかげは数珠繋ぎのように。
 例えば私がなら昨日、姑親と嫁さんと二人が仲よう、リュックを担いで履物の商売に出歩いておられるという、その私は記事を読ませて頂いた時に感動した。そういう感動がですね、私共の周囲には一杯あると言う事なんです。言うならばあれもおかげであった。これもおかげであった。もうそれこそおかげ御恩恵の中に浸っておるのです。ただ私共の心が汚れ果てておるから、それをおかげをおかげとキャッチしきらんのです。神様のおかげを自分の周辺に感じて、本当に勿体ない事じゃある。
 有り難い事じゃあるという信心が、続くようなおかげを頂く事は、そのまま信心がです、二代に三代に続く事。何故かと言うと、神の大恩が分かるからであります。「神のおかげを知らぬから、互い違いになってくる。信心して神の大恩を知れば、無事達者で子孫も続き」とあるでしょうが。神の大恩が分かり、神のおかげが分かった時にです、私共はお願いをしとったら、そのお願いが成就したと言う事が、勿論おかげですけれども、そう言う事だけではない。
 もういつもがです神のおかげ神様の大恩、御恩恵の中にあるんだという実感がです、出来るような信心を頂くためにです、一つ皆さんこれだけは露ほどに違わんという信心を、一つ身に付けなさる事です。おかげを頂く時には、もうやあやあ言うて参ってくる。頼まにゃん時にはやあやあ言うて参ってくる。そして一時ばっかり「有り難か勿体なか」と言いよるばってんすぐ冷めてしまう。それは一日の中に一つの信心のまぁ芯になるものとでも申しましょうか。
 これだけは露ほどに違わんという信心が、そこになされる時にです、その露ほどの事だけれども、それがおかげをキャッチするのです。おかげをおかげと感じさせるのです。だから何をしておっても何を聞いておっても、有り難い勿体ないという心が段々段々広がって行くのです。そして露ほどにどころではない、その露ほどにのが一つ出来るなら二つ出来る。二つ出来るなら三つ出来れて行く事が楽しみになってくる。
 信心しとれば一年一年有り難うなって来るというのは、そういう信心をするから、有り難うなって来るんです。今度の新聞に朝の丁度この情景が写真に出てます。「神気漂う合楽の朝」という見出しで記事が出ております。皆さんが本当に神気漂う私はそれは嘘じゃない本当だと思うんです。だからそういう雰囲気をまた今日の御教えにも、「朝のすがすがしさ昼の忙しさ、夜の有り難さ」続いとる。朝のお参りのすがすがしさがです、そしてさぁ帰ってから、自分の御用にいよいよ打ち込ませて頂く。
 とにかく目の回るように忙しい今日も大変疲れた。けれども御神前に額づかせて貰う時に、「今日も一日、御用につつがなくお使い回し頂いた事が、有り難うして有り難うして」と言う事になって来る。そういう信心が続くのです。皆さんの言うならば周辺に神気の漂うような感じと言う事は、自分の周辺のすべての事に、有り難いあぁ勿体ない。こんなにも間違いのない働きが続いてるんです。それをただ自分で頂き留めきらんだけの事なんです。なぜ頂き留めきらんか、それは心が汚れ果てておるからです。
 いや言うならば、本気で露ほどに間違いないという教えを、本気で行じていないからです。あれもこれもと言う事は出来ませんけれども、この一事だけは教祖様、金光大神様のお言葉を頂き、それを行じ抜かせて頂いておる。これだけは間違いのない、神様へ向ける止むに止まれんその心というものをです、それをいよいよ頂き続ける。露ほどに狂わん、間違わぬ生き方を身に付けていく。
 そこに例えば露ほどに間違いのない働きが、私共の上に起きて来現れて来る様になる。それは露ほどの事だけれども、それを神様はあれもこれも出来たかのようにおかばい下さって、露ほどの狂いのない間違いのないおかげを、私共の周辺に見せて下さり、または頂かして下さる事になるのです。今日は私は三代続いたら」と。そういう信心だったら、神様が絶対続かせて下さると言う事です。
 だから肝心要の皆さんがです、そこんところの信心を一通りマスターすると申しますか、「本当にこの人間と天地、大天地と小天地、人間と天地の親神様との係り合いというものが。この様にも微妙なもんであろうかと、それを如実に現わしておるのが合楽の先生だ」という意味の事を先生が言っておられますように、そういう働きを自分の周辺に現わして行けれるお繰り合わせ、皆さんもそれを時折は感じなさるでしょう。神様の間違いない素晴らしいタイミングが生まれてくる。
 本当に神様の御恩恵に中にあるなぁ、親先生の祈りの中にあるなぁと実感される。その実感がいよいよこう広がって行く生き方をです、いよいよ身に付けていかなければならない。そこに神のおかげが分かり神の大恩が分かり、これはもう当然分かって来る。そこに「無事達者で子孫も続き、身代もでき一年勝り代勝りのおかげを受ける事が出来るぞ」と仰せられてある通りのおかげを現わして行く事が出来るのが、お道の信心です。
 まぁ言うならば、昨日の続きのような感じですね。露ほどに違わぬ生き方は尊い。けれどもそう言う事が実際に出来るとは思われない。思われないけれどもです、その露ほどに違いの名い間違いのない狂いのない、神様がこれならば受けて下さる。これならば喜んで下さるという行がです、一事でもよいから貫かれていく時にです、その一事が二事にしなければ、三事にしていかなければおられない。
 おかげに繋がって来る訳でございますからね、二代三代いやもう本当に子孫繁盛、家繁盛の元がそのようにして出来て来るのですから。ただ私一代でよいなら「おかげ、おかげ」でいいでしょうけれども、そういう信心を身につけて初めて、天地の親神様の機感にかなう氏子と言う事になるのじゃないでしょうか。「神の機感にかのうた氏子が少ない」と仰せられる。その少ない部類の信者に、お取立てを頂きたいですね。
   どうぞ。